卵が先か鶏が先か、に対して、世界で初めての理論bigpapap説、と人間の元(仮に祖先)、公開日2004-08-03

卵より鶏が先と言う理論を世界ではじめてbigpapaが説く(新説←過去に無かった理論)。設問は、「タマゴだよ」、と、ハッキリと限定していることにご注目ください。日本人は屁理屈と哲学を混同していることが理解出来ると思います、つまり、日本の学校では屁理屈を哲学だと誤解して教えているのであろう。

指し言葉、これは鶏の卵です。これはアヒルの卵です。これはうずらの卵です。これは恐竜の卵です。これはヘビの卵です。これはトカゲの卵です。これは亀の卵です。これはヤモリの卵です。これはサンゴの卵です。これは魚の卵です。我々は等々の言い方をする。
つまり、ヘビやトカゲや亀やアヒルが産んだ卵のことを、鶏が産んだ卵とは言わない。卵はそのものの親(動物)、卵を産んだもの(動物)の名をつける。例えば、これは鶏が産んだ卵です、これはヘビが産んだ卵です、とか、、。
★ 
問いのタマゴが鶏のタマゴの他の生き物の卵では問いが成り立たない、つまり、この場合のタマゴは鶏のタマゴに決まっています。更に、問いのタマゴは有精卵と理解すべきである、問いのタマゴが無精卵では、問いが成り立たない、その訳は問い自体の自然サイクルが成り立たないから。つまり、問いの鶏は多数でタマゴも多数と理解すべきである。問いの鶏とタマゴは現在(過去ではない)であると理解すべきである。

卵が先か、鶏が先か」の問いは、人間(日本人)が如何に洗脳され易いか、自己洗脳し易いかの壮大なドラマの類(たぐい)である。 日本人は必ずこの問いになると生物(動物)の「進化論や遺伝子や細胞」を持ち出してきて屁理屈を並べる。 問いは、生物(動物、鶏A卵Bはいずれが先か)の進化や遺伝子や成長過程を問うている訳ではない。日本人は勝手に「鶏又は卵の進化」進化の方へ持って行き、鶏の元(鶏の以前の動物の卵)卵の元(卵以前のもの)を指摘し屁理屈を並べ、必ず「卵が先」と結論づけるのである。 問いは「鶏と卵の進化、遺伝子や鶏の成長過程」を問うている訳ではない。問いは、生む側と生まれる側の永遠に続く子孫繁栄の道理、倫理等を問うているのである。 進化」を問う設問の場合は「鶏と卵の進化」「卵が先か鶏が先か、進化論や遺伝子から導け」と言う設問になります。
日本人はこの(鶏が先かタマゴが先か)問いに対して、すぐ進化や細胞や遺伝子、等々、と言う現象を持ち出すが、、、例えば、
人間は猿から進化した、と、世間で言うが、
人間は猿とは言わない、つまり、鶏以前の生き物は鶏とは言いません、はたしてこの論理が理解出来るか、屁理屈が得意な日本人は、、、。
設問に対して、「進化論」を持ち出して、、、行き着く先は、「細胞」になるのが知ったかぶり輩の行き着く先である。つまり、論理的に理解することを教育されてない日本人は、設問の、鶏とタマゴに対して、細胞レベルに行き着くような解答するのが日本人独特である。日本人は、哲学と屁理屈を混同している。

 「卵から鶏が生まれる」と教えている(辞書にも記載在る)日本の現状、インターネット等でもその言葉は普通に使われている言葉文章である。卵の何処に鶏を生む生殖器が在ると言うのだ、生物理論からして卵から鶏が産まれることは在り得ないこと、、、日本のなになに国語言語博士諸君、言い訳できるか、、、日本の教育が論理的に物事を正しく教えてない証拠のひとつであろう。、、、これでも、表現の自由は制限出来るとか表現の自由には制約がある、と(日本のすべての法律書がコレ、制限と制約)、と、のたまう司法関係者が日本である。日本国憲法の何処に「表現の自由は制限出来る」「表現の自由には制約がある」と言うような意味の記載が日本国憲法に在ると言うのだ司法関係者、国語言語博士、新聞雑誌テレビラジオ関係者、公務員、諸君、、、言い訳できるというのか、、、。
------------------------------
うま・れる 【生(ま)れる/産(ま)れる】(1)子が母体や卵から出る。出生する。誕生する。三省堂提供「大辞林 第二版」より
但し、実際はタマゴは産む生む側ではない、その訳は、タマゴには生殖器はない、タマゴには生まれ(産まれ)出る穴(雌が有すべき性器)がない。鶏(又はひょうこ)はタマゴから「孵る」と言うのが事実である。つまり、タマゴは鶏を産まない(生まない)のである。
この間違った(辞書)事実も日本人が洗脳され続けている現状のひとつである。


★★★下記、枠内が悪名高い掲示板2チャンネル←での私(bigpapa)への問い。 公開日2004-08-03

http://aa3.2ch.net/test/read.cgi/mona/1076791253/ ←悪名高い2チャンネル掲示板から引用転載。 違法行為(bakaアホ精神異常者よばわり、名誉毀損等々)でも放置し居るのが2チャンネルの現状である。

客になって言いたい放題、へぇ〜■■■

1 :( ´∀`)さん :04/02/15 05:40 ID:taPbafQo

      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      |   2ちゃんねるの文字絵はAA(アスキーアート)ではなく、、
      |   JIS(JP)アートと言うらしいね、マスター、下記URL見て。
       レヽ____________________
   ∧_∧        ∧_∧    / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   (  ・∀) / ̄ヽ  (´∀` ) <  へぇ〜〜〜〜〜〜〜。
   (   `つ 日 凸 ( つ つヽ  \  100へえ〜だね。
   (_ ⌒./   凵ヽ | | | |ヽ.凸\________________
   「  (_/Y     ヽ _(__) | |\|   |
  ┗┳━| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|    ..   \|. │  |
    ┻\|        .|        \.|   │

文字絵(text art)に関しての理論は下記URLをご覧ください。
 ↓文字(text) 絵(art)の分類

                  / AA(ascii artはISO-8859掲示板のみに掲載出来る文字絵)
                 /  (AA→アスキーアートは日本語掲示板には掲載出来ない文字絵)
文字絵(text art)の分類− (AA→アスキーアートとはasciiシングルバイト文字絵のみを指す
                   \ JISart(漢字かなの文字絵Japan Original art)日本の文字絵
                    \KSart(全角半角混在文字絵←KSC code韓国の文字絵)
                      \GBart(全角半角混在文字絵←GB code中国の文字絵)

40 :( ´∀`)さん :04/02/21 01:10 ID:jevl8YMG

      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      |   2ちゃんねるの文字絵はAA(アスキーアート)ではなく、、
      |   JIS(JP)アートと言うら/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       レヽ_________|  まだやってるの、そのワンパターン荒らしw
   ∧_∧        ∧_∧   |  沖縄に生息してる基地外だったよね。
   (  ・∀) / ̄ヽ  (´∀` ) <  bigbakaっていったっけ?
   (   `つ 日 凸 ( つ つヽ  \  卵が先か鶏が先か証明出来るかbigpapaくん。
   (_ ⌒./   凵ヽ | | | |ヽ.凸\________________
   「  (_/Y     ヽ _(__) | |\|   |
  ┗┳━| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|    ..   \|. │  |
    ┻\|        .|        \.|   │
Q:「卵が先か鶏が先か」、世界で誰も証明してないこの論争を解決出来るかbigpapaくん。w

42 :( ´∀`)さん :04/02/21 07:44 ID:eFUQsz+r

      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      |   2ちゃんねるの文字絵はAA(アスキーアート)ではなく、、
      |   JIS(JP)アートと言うら/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       レヽ_________|  まだやってるの、そのワンパターン荒らしw
   ∧_∧        ∧_∧   |  沖縄に生息してる基地外だったよね。
   (  ・∀) / ̄ヽ  (´∀` ) <  bigbakaっていったっけ?
   (   `つ 日 凸 ( つ つヽ  \  卵が先か鶏が先か証明出来るかbigpapaくん。
   (_ ⌒./   凵ヽ | | | |ヽ.凸\________________
   「  (_/Y     ヽ _(__) | |\|   |
  ┗┳━| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|    ..   \|. │  |
    ┻\|        .|        \.|   │

      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
      |  へんなおじさんが 「卵が先か鶏が先か」証明出来たら、
      |   マスターはどうする。/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
       レヽ_________|  ......出来るわけないよっ。
   ∧_∧        ∧_∧   |  もし、証明出来たら、腹を斬るよ包丁で。
   (  ・∀) / ̄ヽ  (´∀` ) <  ..........更に、丸坊主になるよっ。
   (   `つ 日 凸 ( つ つヽ  \  更に、オチンチン切ってオカマに成るよっ。
   (_ ⌒./   凵ヽ | | | |ヽ.凸\________________
   「  (_/Y     ヽ _(__) | |\|   |
  ┗┳━| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|    ..   \|. │  |
    ┻\|        .|        \.|   │

ココから下は悪名高い2チャンネル掲示板より引用転載、日本ではすべて卵が先理論のみ、2004/08/10以降に引用追加
http://aa5.2ch.net/test/read.cgi/mona/1091549711/l50
12 804/08/08 15:41 ID:hrZoi7Pg ←この者が記載した文章。
鶏の先祖(これは鶏とはいえない)が卵を産む卵から鶏が生まれる、よって「卵が先
-----------------------
>学校では、答えの出ない論争の例えとして習った。
>卵が先と教えてるとは知らなかったよ。
------------------------------
>鶏は元は鶏ではないなにかの卵から孵ったので「卵が先
--------------------------------
>全ての鷄がその発生の最初の段階で卵である以上「卵が先
............................................................................
鶏は卵から生まれる。鶏でない鳥から卵が生まれて、それは鶏となるから「卵が先
.........................................................................................
日本では、哲学と屁理屈を混同して教えている現状(証拠)、下記がそれ、教育基本法の不備は明らか、「自主性を尊重した基本法」自主性の精神は間違いとは言わないが、しかし、これ等、間違った教えの責任は誰が取るのだ、ある程度の規制は必要だろう屁理屈を山ほど積み上げ屁理屈合戦を生徒にさせる討論(ディスカッション)とは呆れる。教えている教育者自体が、それは間違った教えであるとは、理解すら出来ないのが日本の教育現場である。。。AA(アスキーアート)の件もまたしかりである、日本の教育現場では「半角文字はアスキー文字」と間違った教えをしている、呆れて仕舞う、半角とはJIS文字の中の1バイト文字と言う意味であり、アスキーと言う意味ではない、半角とアスキーは別物(別々の文字コード)である。半角とは、JIS漢字(2バイト)文字の半分(1バイト)の大きさの文字で、漢字(2バイト)の半分の大きさの文字が半角(1バイト)文字である、、、アスキーとは、アメリカの文字変換コード文字のことである。
http://qa.2ch.net/test/read.cgi/argue/1105810901/478
中学の時、塾でこの問題について大勢でディスカッションをさせられた。
まずそれぞれタマゴ派、鶏派に分かれて議論を行う。 各グループで話し合ったあと、それぞれの意見を述べ合い討論する。 ある程度話し合いが進んだら、そこでいきなりタマゴ派と鶏派を入れ替えて、 今度は全く反対の立場で討論させ合う。 今まで自分が批判してた方を擁護し、擁護してた考えを批判しなければならなくなる。 すると不思議と自分の反対だった考えが正しく思えてくる。 しかしどんなに話合っても結論はでない。 なぜならこの議論の目的は答えを出すことにあるのではないからである。

卵が先か鶏が先か、に対して新説、世界で初めての理論bigpapap説
卵より鶏が先と言う理論を世界ではじめてbigpapaが説く(新説)
設問は、タマゴだよ、と、ハッキリと限定していることにご注目ください。
日本人は屁理屈と哲学を混同していることが理解出来ると思います、つまり、日本の学校では屁理屈を哲学だと誤解して教えているのであろう、論理的教育を受けてこなかった教師が、、。教育も洗脳の類とご理解いただきたい。引用文をご覧になればご理解いただけると思いますが、日本の教育現場では、屁理屈大会を討論会(ディスカッション)と勘違いしているのである。

この問いに、進化論、細胞、遺伝子、等々を持ち出すと言うことは、問いの主旨が理解出来てないのである、問いのは、現在(現在の生き物)であり、その(過去の生き物の卵ではない、よって卵は鶏の卵に決まっています)も現在であるにもかかわらず、それ等(進化論、細胞、遺伝子、等々)を持ち出すことは過去の事と混同しているのである。この事からも日本人は論理的ものの見方ものの考え方が不得意である。それは日本の教育が、論理的ものの見方、論理的ものの考え方の教えを疎かにしている証である。過去の事と現在の事を混同しているのが日本人のものの考え方である。

はじめ(新説)ての説とは、単に過去のデーター(証拠根拠)を否定(覆す)したものを指す。
★★★  卵が先か 鶏が先か」と言う言葉は、昭和の初期頃から、解決つかない水掛け論の一種に使用する言葉である。物事が又は話合いが、永遠に同じ事の繰り返しで、無限ループに入り解決しない事(ものごと)に対して、使う言葉である。が、しかし、その例えと成ったその経緯は.....。
世の中で「卵が先か、鶏が先か」を誰ひとりとして証明してないからである。
それ(卵が先か、鶏が先か)は、数字のマジック方程式の移行のマジックである(二進法のマジックである「後か先」「生か死」「○か×」「1か0」「明か暗」「生む側産まれる側個体と個体の移動、個体と個体の速さ、前後、)。
この問いは日本語や生物物理理論を正しく理解出来る者であれば意図も簡単に解ける説ける。

「俺は東大卒だ、俺は京大卒だ、俺はなになに博士だ」「哲学者だ」とのさばっている者達誰一人として過去に、それを証明した者は居ない(皆無)この者達の意見はバラバラで、「卵が先」と言う意見を述べる者達(高学歴、大金持ち)が世の中を支配しているからである。現在、鶏が先、と言う理論(発表された論文)は無い。なぜ無いかと言うと日本では、答えが無い、卵が先、の意見が世間を席巻しているからである。ましてや、日本の辞典のすべてではないが、「卵から鶏が生まれる」と言う意味の訳し方が掲載してある。卵から鶏が生まれる、と言う言い方は、生物(動物)理論から言って、合理性がなし整合性がない。動物の場合生まれるとは、生殖器(性器)をもったものから、別々の個体に成る、別の個体が生まれる産まれる、と言うことである。

でぇ 「卵が先か 鶏が先か」論争に対し、「生命の進化」や「生物の進化」や「鳥の進化」や「爬虫類は鳥類、又は鳥類は爬虫類」や「DNA」「生物の起源」と言う屁理屈を持ってくる者(俺は東大卒だ、俺は京大卒だ、俺はなになに博士だ、俺は哲学者だ)達がのさばっているのが現状である。「卵が先か鶏が先か」は鶏の祖先を問うている訳ではない。鶏の祖先を問うのであれば、「鶏の中のある種の祖先はなにか」「例えば、シャモ、名古屋コーチンの祖先は」と問うことが正しいのである。しかし祖先や先祖と言う単語は通常、人間の一族の初代を指すのである。卵は親が産んだ容器(子供を生成する入れ物)である。母鶏産む側産まれる側、と言う世界共通のルール(世界の常識)である。日本では卵から鶏がうまれる、と解釈されている。つまり、日本人は卵から鶏が孵ることを別々の個体として解釈されている。生物(動物)が、産む生むとは、別々の個体になる(母親とは違う別の個体を生む)と言う現象である。同一個体には後先と言う区別は無く、あるのは成長過程である。■後先とは、在る物体(個体)が後であるのか先であるのか、である。例えば、ある物体とある物体が競争して、その物体が先か後か、と言う風に使用する。日本人は卵を割って味付けし鍋(フライパンで焼き)で焼くことを「玉子焼き」と言い、玉子を二つ割ってそのままフライパンで焼くことを目玉焼きと言う。これはひよこ子供と同じと理解している証であろう。鶏が卵を生んだ産んだ(合理性あり)、と言うが、卵から鶏が生まれた(不合理)、と言う言い方は間違いである。

ちなみに鶏の祖(元)は、鶏の卵を産む、鶏に近い雌の鶏と鶏に近い雄の鶏、いろいろな鶏を家畜化したものである。つまり、なにがしかの卵を見て、卵に対して、鶏と決めた訳ではなく、鶏と言う生き物(生体生態)の姿格好を見て、それを家畜化して鶏と決めたのである。 そしてその鶏が産んだ卵を鶏の卵と言う。
故にこの場合、物事の始まりは産む側の鶏(生態生体←動くもの)が先で卵は後である(生物物理学理論)。つまり「卵←ニワトリが生んだ卵」と「鶏←卵を生むにわとり」と言う漢字(言葉)が使われた頃から「卵が先か 鶏が先か」を説く(論じる)ことが本来(正しい)である。つまり 「爬虫類は鳥類、鳥類は爬虫類、鳥類の祖先、DNA」←等の説の古生代には「卵とか鶏」と言う言葉(漢字)はこの世に無かったのであり、「爬虫類は鳥類、鳥類は爬虫類、鳥類の祖先、DNA」←を持ち出すこと自体屁理屈である。それで居て、高学歴のこの者達(俺は東大卒だ、俺は京大卒だ、俺はなになに博士だ)は誰一人として、その(鶏が先で卵は後)理論を発表してない。

   その屁理屈→(爬虫類は鳥類、鳥類は爬虫類や、鳥類の祖先、DNA)を並べる者の論争を「卵が先か鶏が先か屁理屈論争」←「卵と鶏の屁理屈論争」と言う、又は卵から孵ったものは鶏ではなく「ひようこだ」と言う屁理屈を並べる輩も居る。 世の中で「卵が先か 鶏が先か」を、誰ひとりとして証明してないが、では、、、bigpapa(沖縄のパパ)がその論争に終止符を、、、算数(たす、ひく、かける、わる)理論を駆使しお目にかけよう。方程式理論の移行を利用。

現在この世の中の卵(ニワトリの卵)99%は鶏に成り(孵らないヒヨコにならない)ません。その理由は、鶏の卵は「人間の食」の為に、鶏の卵の99%は無性卵(雌鶏のみで産んだ卵)であるからして、それ等の卵(無性卵、無生命卵)からは鶏(ヒョコ)は孵(かえる)りません。(ここで、「卵からは鶏ではなくヒョコだ」と言う輩のことを屁理屈野郎と言う)つまり その卵(無性卵、無生命卵)を生んだ雌鶏は、雌の鶏→鶏は卵を生むが→その卵からは鶏(ヒヨウコ)は孵らない」のである。つまり、それ等の卵(無性卵、無生命卵)からは鶏(ヒョコ)は孵らない(派生しない)つまり、雌鶏のみで産んだ卵には鶏遺伝子は組み込まれてないのである。雄と雌の鶏が交尾して卵に鶏遺伝子が組み込まれるのである。つまり、無精卵には鶏遺伝子(生命の設計図)が組み込まれてない、無性卵無精卵からはヒョコは孵らないのである。

 雌鶏は卵を生むが、雌鶏のみが産んだ卵は孵らない、つまり、鶏(雌鶏)は卵を産むが、雌鶏のみ(雄鶏との結合無し)が産んだ卵からはヒョコ(鶏)を孵すことは不可能であり、、、卵が先と言う理論は成立しない。故に、鶏が先で、卵は後である。生物は雄と雌のなんらかの結合があって子孫を残せるのである。
卵を孵すことは卵を産んだもの(動物)でなくてもよい。有性卵、有精卵、有生命卵、にある期間適度の熱を加えれば卵を産んだ親の子孫を残せる(卵を産んだものと同じ種類の動物が孵る)。つまり、有性卵、有生命卵(雄と雌が結合した卵)のみ孵るのである。つまり、親どりは体内で卵(実際は鶏の体内だから卵になってない)に鶏の遺伝子を組み込んで、卵(人間の場合赤ちゃん)として雌の鶏が産むのである。

★★★ 「鶏が先か卵が先か」の設問の連続性は、いずれが先に存在したか、いずれが先に生まれたかである。ちなみに設問の連続性は有精卵で、雄、雌、が決まっている、無精卵では連続性は発生しない、つまり受精した時点で、雄になる卵か、雌になる卵か、に成っている。つまり鶏が卵を生んだ時点で、人間で言う母親が子供を生んだことと同じ状態である、よって卵が鶏を生む訳ではない、つまり、鶏と卵は親子関係である、親(鶏)、子(卵)、

 卵からニワトリ(ひょこ)を孵す為には、雄と言う別のニワトリ()が必要である。つまり、卵より先に、生態生体()が二種類(雄雌→異性)居て初めて、鶏から有性卵(ヒョコが孵る卵)が生まれるのである。異性2生態から卵が生まれる、と言う無限連鎖サイクルが成り立つのであり、それ(論理上異性2生態生体から、卵1が生まれるが、生態理論上、1(卵)から2(2生態)は生まれない、1(有精卵)からは1生態(雄か雌のヒヨコ一羽)しか孵らない、生まれない、)が種の保存の法則である。むかしむかしの話から推察、卵を産んでその卵を温める親が居なければ、卵(子)はひょう(鶏)に成らない。親が先に必要になり、親(鶏)が先。しかし現在は電気やガスで温める。
つまり、卵が孵る為にはその卵を産んだ性別が違う鶏(生き物)雌の鶏(生き物)と雄の鶏(生き物)が居たはず、よって異性の2生態(仮に鳥類)が2羽先に居たから1卵は産まれたのであり、卵が先は100%ありません。産む側(鶏←母鶏)、と産まれる側(卵←ひよこ)、の論理からして、鶏が先であることを理解することは容易である。卵は産まれる側であり直接産む側ではありません、結局産まれる側の卵=鶏であり、鶏が鶏を生んだ事と同じようになります。親(母鶏)が子(卵)を生むであって、子(卵)が親(母鶏)を生む訳がない(卵=鶏、理論)。よって、鶏が先である。

 つまり、卵単体(無性卵、無生命卵)からは鶏(ヒョコ)は生まれない、孵らない、のである。卵から鶏(ヒョコ)を孵す為には、先に鶏の雌が居て、更に、鶏の雄が必要である。つまり、生殖器を所有している2種類(雄雌)の生態(鶏→ヒョコ)が先、と言うことを、導くことは容易である。1卵自体には生殖器はないから、卵(無性卵)から鶏(ヒヨコ)が生まれる(孵る)ことは不可能である。方程式理論から言って、、、故に、明らかに2鶏が先で、卵1が後である。
算数理論(たす、ひく、かける、わる)方程式理論からして...
Zより先に「雌の鶏→X」と「雄の鶏→Y」が先に居たのであり、故に、「鶏が先」と言うことに成ります。つまり ♂と♀を掛け合わせた鶏から産まれた卵(有性卵、有精卵、有生命卵)のみ鶏(ヒヨコ)になるのであり、その点からも「鶏が先」と言うことがご理解いただけると思います。(無性卵と言う卵からはヒョコ鶏は孵らない)つまり 鶏は、雄鶏と雌鶏の2(2)であるが、卵は一個(ひとつ)である。つまり 卵には生殖器が無いし、卵1単体(無性卵、無生命卵)からは鶏は産まれない孵らないのである。

 つまり 卵から鶏(ヒョコ)が産まれる為には、卵より先に雄鶏と雌鶏と言う鶏が必要、、、「雌の卵子」と「雄の精子」が必要で、卵1単体(無性卵)からは鶏(ヒョコ)は産まれないのであり、自然の法則(種の保存の法則)により有性卵を作る為、雄の鶏と雌の鶏が先に居たのである。つまり 算数(方程式)理論からして、鶏が先で、卵が後、と言う理論が成り立ちます。

 でぇ、それ等と同じ現象を、ヤモリの実験からも証明出来ます(bigpapaがすでに証明済である)
つまり、卵を産む動物は、ほとんど子孫繁栄の為に、必ず、雄と雌の2種類の生殖器を必要とします。
つまり、子孫繁栄の為には、事前に、なんらかの2生態が必要です。
つまり、2生態(2鶏)が先であり、その2生態から産まれた卵から鶏(ヒヨコ)は孵るのである。
つまり、生態(卵を産む生き物→鶏)が先で、卵は後である。これはすべての卵を産むもの(動物)に言える。

つまり、卵は、別の例えで言えば、種を蒔く(鶏遺伝子)栄養の在る苗床に過ぎないのである。
つまり、無姓卵無精卵(
鶏遺伝子の移行なし)は、栄養の在る苗床に例えることが出来ます。
つまり、雄の鶏と言う種を蒔かないと、有精卵は出来ず、卵から鶏(ヒヨコ)が孵ることはありえない。
別の例えで言えば、、、卵は、子宮内と同じである。
子宮内で、卵子と精子から生態(動物)を作る。卵内で卵子と精子(
有姓卵、有精卵、有生命卵←鶏遺伝子を組み込む)から生態生体(動物)を作る。つまり、鶏と言う生き物を卵(有性卵、有精卵、有生卵)から孵す為には、雌の鶏だけでは成り立たず、別の生き物、雄の鶏を必要とします。故に、方程式理論からして、鶏が先であり卵は後である。

 こんな例えでご理解くだそい。人間は子供を産んで子孫を残す鶏は卵(ひよこ)を産んで子孫を残す。これ等は両方とも種の保存の法則は同じ論理であり、人間は人間と言う形態を母の胎内で造るが、親鶏は卵の中に鶏遺伝子を組み込み卵として産み、その卵を温める(インスタント麺にお湯を注ぐ喩え)ことになって鶏の形態を造るのである。人間も鶏も子孫を残す過程は工程が若干違うだけで論理的には同じで、いずれも親は生き物です。つまり、卵を人間で言う子供とご理解ください。鶏は自身の子孫を作る為に卵(命の元を託された容器)を産み、産みぱなしで後は卵を、誰(自身含む)かに温めてもらい形を造る工程を他人任せている、とご理解ください。しかし、鶏も人間も生き物です。つまり生き物が先に在ると言うことは容易に導けると思います。卵は親が産んだ容器(鶏遺伝子を組み込まれた、子供を生成する入れ物)である。容器からヒヨコ(鶏)が出る。我々日本人は、卵からヒヨコが出る状態を生む、と一部の日本人はそう教えて居る(辞典にも記載有り)。つまり間違った情報を日本人全体が共有しているのが現状である。卵は生まれたとたん、産むと言う権利を失い(卵は産まれる側オンリー)、卵からは鶏は生まれない。卵は遺伝子を組み込まれた産まれる側であって、遺伝子を組み込む方の産む側ではありません。遺伝子を組み込む側は親鶏であり、組み込まれる側の卵は産まれる側である。生命(ひよこ)が卵から出て(日本人ではここで生まれる産まれると教えて居る)、ひよこが成長し親()になり産む側(親鶏)になるのである。つまり産まれた卵(遺伝子を組み込まれたある面容器)は変化(孵化、日本人のほとんどは孵化することを生まれる産まれると教えられている)してヒヨコに成り成長し親鶏と言う産む側に成るのである。

簡単な算数(方程式)理論で解けることを、教育者や知識人や俺はなになに博士だ、とのさばっている者達は、こんな簡単な理屈(論理)を理解出来ないのである。この者たちは、異常なほどの固定観念が強い人間に仕上げられている(洗脳と自己洗脳)。そのことは世界共通と言えなくもない。高学歴の者達が理解出来ない現象は、子供(小学生)の頃から算数(方程式理論の基礎)の正しさを理解させてないからであろう。現代教育の矛盾と曖昧さはそこいらにもある、と思われる。さらに、日本の教育方針で時代(年来年代)の数字を正確に書かないと、不正解と言う、このやり方は、不必要なことであり、古い年代の正確さに将来(社会に出て)なんのメリットがあると言うのだ。算数数学理論であれば数字の正確さは重要だが、歴史の年来年代を正確に書けとは、無駄な出題である。鎌倉時代とか明治時代とかある時代の単位で十分なはずだ。

こんな簡単なことが、何故理解出来ないのだ。「俺は東大卒だ、俺は京大卒だ、俺はなになに博士だ」とのさばっている者達よ、頭を冷やしてかんがえてみろ、卵より、鶏が先、であることは明らかであろう。おぃおぃ、世間は、なにかわからない卵を見て、「これは鶏、又は鶏の卵」と決めますか。鶏と言う生き物の姿格好を見て、「これは鶏だ」と言い、その姿格好みて鶏と決めたのである。故に、生き物の鶏が先と言うことを導くことは容易である。

★★★ あなたが小学5年生以上の学歴を有しているなら理解できると思うが、、、「俺は東大卒の憲法学者だ」「俺は京大卒の憲法学者だ」「俺はなになに博士だ」とのさばっている者(先生や教授や学者含む)たちは、、、「表現の自由は制限出来る」「表現の自由には制約がある」と国民に指導しているのが現状である、司法関係者はすべてそのような主張をするその者達の教育を受け、司法試験に合格している。果たして憲法の何処にそういう意味の記載があると言うのだ。憲法は「表現の自由はこれを保障する」とハッキリと記載してある。保障とは保障した件、保障した範囲は制限しない、又は制限が無い、と言う意味である。保障とは保障した件、保障した範囲には制約はない、と言う意味である。憲法はなにを保障しているかと言うと、「表現の自由」を保障しているのである。ちなみに「自由」と言う言葉が琉球に入ったのは明治後期頃と言われている。おそらくその頃日本全国で自由と言う単語を使用するようになったのであろう。(自由の件情報が確かではないが)

★★★ 「俺は東大卒だ」「俺は京大卒だ」「俺はなになに博士だ」とのさばっている者(先生や教授や学者含む)たちは、、よくこんなことを言う。「鶏の祖先は鶏ではない」と言うが、鶏の祖先は鶏であり他の動物ではありません。例えば、人間の祖先は??、、、と学校等で教えているようですが、その者達は、「人間の祖先は猿又はそれに近いもの(動物、原人)」と教えるが、人間の祖先は人間であり猿類(ゴリラ含む)ではありません。適当に原人と教えて居るようです。原人とは人間の元と言う意味である。人間の祖(元)を原人とは曖昧で呆れた言い方だ、いい加減曖昧である。ハッキリと人間族と言えないのか知識人は。
なぜ、
人間族と言えないかと言うと、知識人は人間は猿族から進化したと教えて居るからである。

何者か判らない動物(旧猿族又は猿族と仮定し、現在生きてないもの)から、新猿族(.ゴリカ、チンパンジー、類人猿)と人間は祖先が同じ、と言う現在の説(世界の常識)であるが、それは違う、と言うのがbigpapa説である。

例えば、こう教えるべきである。No1、人類が「人間」と成った決めた境目の時点から人間であり、人類が「鶏」と決めた境目の時点から鶏である。つまり、人間からは猿は生まれない。人間は人間と決めた時点から人間だったのであり、鶏も鶏と決めた時点から鶏だったのである。No2「人間の元は前←人間以前は」とか「鶏の元前←鶏以前は」と教えるべきである。祖先と言う言葉は、そのもの(例えば、人間)の最初のことを指し、祖先とは、その以前のも(例えば、人間以前)のを指すのではない。祖先祖先とは、人類の中の「族」「類」のことで、我々のご先祖様のことである。祖先先祖とは、人一族の祖、人の類→人種等のことである。人間の祖先先祖とは、人間になって(類人猿のことでは無い)から、この方のことであり、人間以前の生命の進化、人類の進化、等に使用する単語(言葉)ではありません。細胞レベルや人間の進化や生命の進化に「先祖祖先」と言う単語を使用することは正しくない。
「あなたの祖先は猿ですか」、あなたの祖先は人間であり猿ではありません。猿からは人間は生まれません。つまり、動物は必ず、その種の親が産み(生み)育ち、死に、と言う、無限の繰り返しであり、卵は生む、産まれたの中の一工程(一連の業)である。生まれるの中に、生まれると言う工程の中に「卵」があり、無性卵は死産と同じである。有性卵は、生まれるの中の「生き」か「死の」どっちとも言えない状態である。孵化器が無かったむかしむかしは、親鶏が卵を抱き孵化(命を生む、生命)したのである。
「人間になる以前は人間はなにから進化したのですか」「人間になる以前は人間はなにから進化したのですか」と質問があったとした場合の答えは、、、「それは、他の動物だったかも知れない」と答えるべきである。他の動物とは、人間ではないし、鶏でもありません。

卵の時点では、通常生き物とは言わない。何故そう言えるかと言うと、鶏を殺して食べる時は生き物を食べると言うが、卵を食べる時生き物を食べるとは言わないし、通常生き物とは、自身で移動又は自身で動くものを指します。卵は自身では動かない。鶏とは言わないものから生まれた卵は鶏の卵とは言わない。人類がある生き物を鶏と決めた時点に、その決めた鶏は、時間差ことあれ、その鶏が孵った卵も同一とみなされます=鶏、(法医学理論)人類は、鶏と言う生き物を見て、これを鶏と命名したのであり、その命名した鶏の孵った卵も鶏の卵になります=鶏、(法医学理論)。ここで「卵は人間で言う子供みたいな、、」云々、つまり、その子供みたいなものが鶏に成ったのである。つまり、卵=鶏、子供=ここで、哺乳動物が言う、生まれるは、、、卵=鶏が同時に行われた、と理解できるであろう。ここで、進化論で言う、別の生き物から→比喩で容器(ひょこと言う鶏)を生んだ。つまり、卵とは哺乳動物で言う、、、産んでから、熱をあてて形を造る(人間で言う子供)でぇ、その子供が鶏である卵=鶏。つまり、鶏は別の種の親から卵を介在して生まれたのである。卵は単に、容器に過ぎないのである。つまり、生き物は、必ず親から生まれる(卵含む)のである。卵は親ではない。卵は親が産んだ容器(子供→ヒョコを生成する入れ物)であり、つまり、時間差ことあれ卵と鶏は同一です。鶏が産んだ卵の場合、鶏は産む側で、卵は生まれる側である。つまり、卵は、比喩で人間(哺乳動物)で言う子供と同じである。容器(卵)の中に居るのは鶏と命名した鶏であると仮定し、命名した鶏から産まれた卵が鶏の卵であり、鶏でもないものから産まれた卵は鶏の卵とは言わない。鶏と命名した鶏から産まれた卵以降を鶏の卵と言う。 ★★★>>12、卵が先論理の場合は、指摘の卵は、卵=鶏になり時間差こそあれ、なにものか判らない生き物が産んだ卵と鶏は同一です。しかし、母鶏から産まれた卵は、母鶏と卵は同一ではありません。この場合、母親()と子(鶏が産んだ)の関係に成ります。問いは、結局、母親()と子()はだれが先か、と言う問いになります。答えは母鶏が先と言うことが明らかである。

が、しかし、元々「祖先、先祖」と言う言葉は大昔から人間に対して作られた(人間に使用する)言葉であり、下等な動物に対して使用する言葉ではない。しかし、「俺は東大卒だ」「俺は京大卒だ」「俺はなになに博士だ」「俺は哲学者だ」とのさばっている者(先生や教授や学者含む)達が、間違った使い方をして、現在に至っているのである。テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等々メディアまで間違った使い方をして居るのが現状である。祖先、先祖とは人間の祖先、先祖のことに使用する言葉であって、動物に使用する言葉ではありません。日本国民よ、目を覚ませっ、、、、、下等な動物には祖先、祖先と言う言葉は使わない。つまり、人間の祖先、先祖は人間であり猿ではありません。祖先、先祖とは、一族(家系)の祖先(一族の成り立ち、家系の初代)を指す言葉である。つまり、そのもの(人間の家系の、一族の)の初代(1代目)のことを指す言葉が先祖、祖先である。祖先、先祖とは人間の元(進化論、人間の成り立ち、なにから人間になったか)を指す言葉ではない。先祖、祖先とは、一族の祖(一族の最初、1番目の族、祖)のことである。つまり、祖先、先祖と言う言葉の使用方法を間違ったまま、現在日本国民が使用しているのである。例えば、「人間の祖先、先祖は」「人類の祖先、先祖は」「動物の祖先、先祖は」「植物の祖先、先祖は」「星の祖先、先祖は」と言う使い方は間違った使い方である。先祖、祖先は、人間の(人間と言う中の族の一番の祖)一族の初代のことに使用する単語である。人間外に使用する単語ではない。日本国民よ、目を覚ませっ、、、、、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等々メディア等々で知ったかぶりしてのさばっている、先生、学者、博士、等々高学歴の者達よ、目を覚ませっ、、、、、人間以外には「祖先、先祖」と言う単語は使用しない、世の中では間違った使い方が氾濫しているのが現状である。つまり、「あなたの祖先、先祖は」と使用するが、「人間の祖先、先祖は」と言う使い方は間違った使い方である。つまり、「人間の祖先、先祖は」と言う問いは、例えば、「あなたの体重は何メートルですか」「あなたの身長は何キロですか」と言う問いと同じ部類である。先祖、祖先と言う単語は人間の中の一族の「祖→初代」を問う時に使用する単語である。
「人間は元はなんだったのだ」←生命の起源、哺乳動物の起源。
「人間はなにから進化したのだ」←生命の進化、人間の進化。と言う問いが正しいのである

先祖、祖先()と言う単語は、人類の進化(生命の進化)を問うている訳ではない。「鶏が先か卵が先か」と言う問いも、生物の進化や鶏の進化や生命の進化を問うている訳ではない。日本の教育者はなにを勘違いしているのだ、呆れて仕舞う。植物の祖先先祖、動物の祖先先祖、星の祖先先祖、と言う使い方は間違っています。なになに博士、とか、なになに学者、とか、なになに文学者とのさばっている者達がこれだもんなーあっ。呆れて仕舞う。

更に、過去から現在に至るも、国を操って来た(国を治めて来た、国を牛耳ってきた)者は、その時代の高学歴の者達と金持ち達だ、こんな人間達は、片寄った物の考え方(洗脳され易く、自己洗脳し易い、と言う特徴を有する)をすると言う特徴がある。だから物事を正しく判断出来ないことが出てくるのである。

「俺は東大卒だ、俺は京大卒だ、俺はなになに博士だ」「俺は哲学者だ」とのさばっている者達は、結局こう言う、、、「鶏は別の生き物から進化したんだから、鶏は別の生き物が産んだ卵から孵ったのであり、卵が先」と結論づける。このことからもご理解いただけると思うが、高学歴の者達は屁理屈に屁理屈を並べて、果ては細胞レベルにまで辿り着く。現代教育はコンピュターで言う無限ループに入るように教育して来たのである。それはなにを意味するかと言うと、そのような教育は、なにか変化が起きた時に、変化に弱い、自殺者(うつ患者含む)や異常者(犯罪者、キレ易い者、精神に異常をきたす者)を増やす結果を招くのである。つまり、そのような教育は自身の脳内を自身で破壊して行くのである。無限ループ(脳内で解決つかない、答えを作らない、同じ事の繰り返しを永遠に永久に、意味がわからない、理解出来ないことばかり)に入ると言うことは、その現象は近年の言葉で言うと「脳ないストレス、キレ易い、変化に対応できない」を自身で貯めて(貯めて蓄積)行くのであるが、高学歴の者達はそれさえ理解出来てないのである。つまり、日本(先進国)の現代教育はそのような教育をして来たのである。知らず知らずのうちにストレス社会を作りあげたのである。それ等のことからも、日本の教育の後遺症は、物事を正しく判断出来ない、自身が曖昧さを理解出来ない人間をゴム印のごとく輩出しているのが現状である。その状態は教える側もしかり、教えられる側もまた同じである。そして、結果、責任を他人に転嫁(自身がガンであることを知らず、何々のせいとか、何々が悪いとか)する人間を作り出しているのである。つまり、自由と言う言葉の意味と、法律が保障する自由とを混同した教育をして来た結果からもそれをご理解いただけると思います。

つまり、「鶏の卵」と「鳥の卵」を無理につなぐと言う手法が、屁理屈手法である。
設問は
、「卵が先かが先か」であって、、、「卵が先かが先か」ではないのです。
つまり、「鶏、卵、いずれが先か」は同一ユニットであり、「鳥と卵」も同一ユニットである。「鳥の卵」と「鶏の卵」は完全に別のユニットであり、それを同一ユニットと教えている現在教育の盲点はそこにもある。

つまり、現代教育は屁理屈手法がまかり通って来たのである。
★★★その最たるものが、デジタル百科事典しかり、工学博士や学者や先生達が、、、「JISコードはasciiアスキーコードを採用している」と学校で、とんでもない間違った教育をしている現状からも、その屁理屈手法がまかり通っていることがご理解いただけると思います。asciiとJISコードは完全に別物(別々の変換コード←別名、国別暗号文字解読表送信受信側が同じコードcodeでないと正しく解読出来ない)であり、asciiとJISコードを完全に混同している。JISコードはasciiを採用して居る訳がない。過去に日本製の機械(コンピューター)にasciiを採用した経緯は無いのである。日本製の機械(コンピューター)は初期からJISコードを採用しているのであってasciiコードは採用した経緯は無い。asciiはアメリカの文字変換コード(アメリカの文字解読暗号表)であり、JISコードは日本の文字変換コードで(日本独自の文字解読暗号表)ある。コンピューター(世界共通)は必ずいずれかの文字変換コードを選択するような仕組みに成っています(コンピュター理論)。コンピュターは同時に違う文字変換コードは選択出来ない仕組みである。「ascii、JISコード←ココ」、何故、日本ではそのような間違った教えがまかり通っても、それが理解出来ないかと言うと、日本の教育には屁理屈手法(例えばそのひとつ、鶏と卵論争→かならず細胞レベルまで行き、解決しない、答えが出ない)がまかり通っているからである。必ずこの論争になると「鶏の先祖先祖」「人間の先祖祖先」と間違った言葉の使い方がまかり通り、日本の教育者は解決つかない(結論無し)状態にもって行きます。解決つかない無理な教育はストレスを貯めることの一つである。屁理屈手法教育は、鶏が物を食べ散らかして周囲を汚し、誰も掃除しない、誰も責任を取らない状態を生み出すのである。それが現代教育の後遺症である。屁理屈手法とは、格好良い言葉では、「哲学」とも言い、「間違った危険な教育学←考え方によれば、社会に悪影響を与えます」とも言います。但し「哲学」を否定する者ではない。

★★★数学の方程式理論や二進数(コンピューターに使用)で、解く、説く、、、
「俺は東大卒だ」「俺は京大卒だ」「俺はなになに博士だ」「俺は哲学者だ」と、のさばっている者(先生や教授や学者含む)達が主張している、「
人類が鶏と決める以前は鶏ではない違う生き物だった、その生き物が産んだ卵から孵った訳だから、鶏と決められた時点で、その鶏は違う生き物の卵から孵ったのだから、卵が先」と、吠えている、が、しかし、人類が鶏と決めた時点に、その鶏は卵から孵ったことは事実だが、、、違う生き物の卵とは、つまり鶏と決めた鶏であり、その時点の鶏と卵は、時間差こそあれ卵と鶏は同一(人間で言う同一人物)である(法医学理論)。人間で言う所の、子供(卵)時代と大人(鶏)時代にあたる。しかし、その鶏が産んだ卵は親と子の関係で鶏と卵は完全に違う個体である。つまり、●○●○●○●○●○●○、●(鶏)○(卵)と言うふうな関係に成ります。
方程式理論から、卵→=鶏は同じ(同一個体)であるが、鶏→=卵は同じではない(完全に別々の個体)。
卵が先か鶏が先かは、違う者(別々の個体)に対していずれが先かの問いであり、同じ者(同一個体)への問いではない。同じ者(同一個体)に後先は在り得ない、生じない。例えば、同じ者Xにどちらが先か、と言う問いは在り得ないが、A鶏B卵、いずれが先かの問いである。先と言う言葉は、ある個体の後か前か先かと言う2点上のいずれか、の時に使う言葉である。

 何故生態を見て鶏と決めたかと言うと、、、鳥類の卵を見て、種類を判別するのは不可能です。卵類は爬虫類も鳥類も似ているので、、、卵で生態(生き物)を特定することは不可能である。 みじかない生き物では、ヘビの卵は、鶏のSの卵に類似しているので混ぜたら判別不可能であり、それぞれ孵ってはじめてその生き物が判別出来るのである。よってある生き物を見て、鶏と決めたのである。鶏の進化はおそらく、細胞レベルから爬虫類、そして鳥類()、哺乳類(人間含む)、と来たと思われる。

★例えとして
、何者か判らない生き物鳥類(B)→卵A→鶏→卵M。卵Aと鶏は、この場合、生物学的、法医学的、見地からして、同一ですが、鶏と卵Mは、別々の固体で、鶏()、と卵M()の関係に成ります。鶏と卵Aは同一(人間で言う、同一人物→子供時代→大人時代)です。卵Aひよこは、この場合同一である。B卵Aは別々の固体で、B(親)と卵A(子)の関係に成ります。B卵Aは、ライオンで言う、親(B)ライオンが子(卵A)ライオンを崖から突き落とす(産み落とす)関係である。つまり、親(B)と子(卵A)は別離状態。卵Aは同一。(親)と卵M(子)は別離状態。つまり、卵Aと鶏は同一(鶏自身)ですから、設問、問いから外れます。何故外れるかと言うと、その場合鶏と卵の関係ではなく、、、単に鶏自身のことであるからして、当然問題(設問外)外であることは容易に理解出来るであろう。設問は、鶏と卵Mのことであることは当然である。鶏と卵Mは鶏と卵の関係です。★★★卵から鶏が生まれると言う論理や鶏は元は卵だったから、卵が先、と言う論理は、卵から親鶏が生まれた、と言う論理に成る。卵から鶏は同一固体である」と言う、生物学者や教授、等々による論文は過去に存在しません(過去に在る、と言うお方は掲示板かメールでお知らせください)。逆に、卵から鶏は生まれる、と言う、とんでもない間違いを日本人が共有している情報である。日本の百科辞典や国語辞典は概ね同じ意味のことを記載して在るらしい(未確認)。産む生むとは、動物の場合人間を含め、あくまでも母親から体外へ出す、と言う意味であ。生物(動物)の場合、生物学理論や科学理論からして、生む産む側親(生きて動いているもの)が先で生まれる産まれる側(人間で言う子供)が後である。その(動物の)自然サイクルは「生、死、生、死」の進化退化の歴史である。

 ここで現実論から解く説く、、、
沖縄だけに、「
ヤンバルクイナ」と言う鳥が居る。その鳥は、発見した時点で「ヤンバルクイナ」と命名された。しかし、そのヤンバルクイナなる鳥は、、、発見者が発見したと報告する数百年年以前にヤンパル(北部と言う意味)の者達は知っていたのである。ヤンバルクイナはおそらく数億年前ころから同じ種類であろう、と推察できます。沖縄が大陸から分離する以前からヤンバルクイナは居たはずだ。
鶏の原種(鶏の元)は現在でもインジやマレー半島や東南アジア地域の国々の山に野鶏(ヤケイ)として生殖しているらしい。鶏には沢山の種類が居て、鶏は東南アジアの山に居る原種(鶏の元)を家畜化したと思われる。おそらく数億年前から鶏は鶏だったと思われる。鶏の進化は始祖鳥あたりかからも。

★★★★★卵が先か鶏が先か、と言う問いは、言い換えれば、親(鶏)が先か子(卵)が先か、と言う問いになります。つまり、鶏と卵は、産む側(鶏)産まれる側(卵)の関係な訳だから、当然、産む側()が先で、産まれる側()は後である。このことを日本の知識人、教育者、つまり高学歴(教育界を牛耳って居る者達)の者達はそれ等が理解出来ないのである。それは、すべての生き物に共通である。亀が先か卵が先か、と言う問いも、また同じ論理である。亀(親)が浜辺に卵(子)を産みに来るが、卵が亀を産みに来ることは在り得ないのである。亀が浜辺に卵を産んで小亀になり、小亀は海に帰っていくのである。つまり、海から、親亀が来て、産み(卵)、それが小亀になり浜辺から海へ帰るのである。亀と亀の卵も、産む側()と産まれる側(卵→小亀)の関係である。

上記のもろもろの事からも理解出来ると思うが、現在の教育方針は、詰め込み教育重視、受験に受かる為の教育重視、と言うことはよーーーく、ご理解いただけると思います。まず、物事を正しく判断すると言う教育が疎かになっているのである。更に、そのことすら教育者は理解出来てないのである。国が認めている理論しか教えていけないと言う教育方針は、物事を正しく判断出来ない者をゴム印のことく産出しているのである。

法理論でそれを説く解く、、、鶏は産む側のであり、卵は産まれる側の子供と同じである。むかしむかし卵は親が温めないと孵らない(現在は孵化器を使用)。つまり、むかしむかしは親が居ないと卵自体は生への変化は無く、適度な熱をあてないと卵自身は死を意味します。つまり、卵自身ではなにも出来ない、と言うことが容易に理解できる。つまり、卵は親が先に居てはじめて生を得ることが出来るが、温める親が居なければ死を意味します。卵は一種の容器だから、その容器の中の生(子供)の鍵(親が温める)を有しているものは親である。つまり、先に鶏と言う親が居てその親が温めないと卵は孵らず死を意味します。よって鶏と言う親が先であることは容易に理解出来る。鶏の卵は適度の一定の温度で温めないと生は得られない。有精卵を野で産みぱなしでは100%生は得られません。卵は有精卵でも卵自身の周囲(殻全体←一種の容器)を適度な同じ温度を保たないと死を意味します。つまり、卵自身では生を得ることは不可能である。鶏と言う親が先に居て生を得ることが出来るのである。よって、鶏が先である。つまり、産む側(鶏)と育てる側(鶏)が先である。産まれる側の卵が先と言うことは100%在り得ないこ。

日本では「卵が先とか、どっちとも言えないとか」間違った教えがまかり通っているのである。産む側が先で、産まれる側が後、は世界共通のルール(世界の常識)である。しかし、日本では、「答えがない」、とか、「卵が先理論」だけであり過去に「鶏が先理論」は無かった。
★★★熱と植物と動物と日本人の曖昧さ物語。子供達にこう教える。。。親鶏が卵を産み、、、卵(有精卵)←(孵化)を適度の温度で適度の日数温めると、卵から、ひようが自分で出てくる。事典では卵からヒヨコが自分で出てくることを「生まれる、産まれる」と記載してあるらしい(辞典は未確認)が、理解させる為形容(概念)する分においては良いが、それを卵から鶏が生まれる、と言う言い方は間違いである。卵から鶏が生まれる産まれる、と言う言い方は、自分己自身から自分自身が生まれると言っていることと同じである、この場合、卵から→ヒヨコ(鶏)に成長することであり、それは己(卵自身が成長成熟してヒヨコ(鶏)自身になった←固体個人本人)己自身である。卵を孵化(適度の熱を充てる)することによって卵の中で命が成長した、と言うことになります。親鶏から卵(子→ひょこ)は産まれたのであり、地球上で生物が二度産まれる生まれることは在り得ない。よって、卵が孵化することは、卵から鶏が産まれる生まれるとは言いません。親鶏が産ん卵を適度の温度温めた(孵化する)ら、卵から自分自身の意思でひよこ(鶏自身)が出て(孵化した結果)来た、と言います。母体(親鶏)から子供(卵)が出ることを産む生むと言う。卵からヒヨコ(鶏)が出ることは生む産むとは言わない。
卵から→鶏は、同一の生き物で自分本人で本人から本人は生まれない、よって卵から鶏が生まれると言う言い方は論理的(生物学的)に間違っています。母鶏が産む→卵、これは別々の個体の生き物である別々の生き物になる。卵(母親鶏が卵と言う容器に託した命)から、殻をやぶって己自身(親鶏から託された生命)が出てきた。

生物(動物)に於いてまれるまれるとは、親(生体→生き物)から子(子孫)が生まれることを指し、生む側と生まれたものは別々の固体になることである。
例えば
、、、我々日本人は米を常食としているが、米を焚き(適度の温度で温める←アルファ化)それを食べる。例えば、おにぎりにを作る場合、我々日本人は、おにぎりに、ごま塩をかけて(ゴマよごし)食べます。そのゴマを適度の温度温めない(アルファ化)と、食べて、ゴマは種のまま排出し、ゴマは芽を出すことが出来ます。
何故、この問い(鶏が先か卵が先か)があるかと言うと、人類が永遠に続くことを祈って、その願いから、子供達に、永遠に続く自然サイクルを理解させる為の問いである。夫婦とはなにか、雄雌とはなにか、女男とはなにか、産む生むとはなにか、、、生む者は親(鶏)であり生まれる者(卵)は子供、と言う永遠に続くことを教え願うと言う、自然のサイクルと倫理観を教え育てると言う目的が存在するのである。熱と植物と動物と日本人の曖昧さ物語おわり。

★生物の生殖器系受精
、卵子と精子が合体し、ひとつの細胞になり、、、生命が作られる(生まれる)。すべての生物(この場合動物)において、必ず生殖器の違いはあれど、卵子と精子に順ずる物を有しそれを合体し、子孫を永遠に残す(無限サイクル)仕組みを有している。つまり、生む側は生殖器の違う親(鶏)が2(この場合2羽)必要になり、受精(卵子精子の合体)し、子孫が永遠に続く為の1卵は産まれるのである。生物は必ず産む生む側が先で、生まれる側は後である。よってこの場合、鶏が先、である。卵から鶏は同一固体(卵自身)であるが、鶏から卵は、完全に別々の固体です。「卵が先か鶏が先か」と言うことは、別々(卵と鶏)の固体でなければ、先、後、と順位をつけることは不可能である。ちなみに、人間は赤ちゃんとして生まれ成長して大人になる(同一個体の成長過程)、母鶏は卵で産(生む)んで卵の中で生命(ひよこ)を育てる。つまり、「鶏が先かタマゴが先か」の問い、この問いが永遠に続くサイクルであると考えられる以上、この場合、鶏は、先にオスとメスが居て有精卵のタマゴが後から産まれることによりこのサイクルは永遠に続くことになり、結局、鶏が先、と言う結論を導くことは容易である。
世界共通の認識として、生物(特に動物)の場合、種の保存の法則からも、生殖器(雄雌)を有しています。しかし卵そのものには生むという生殖器(雄雌)は有していない。動物において、生殖器を有しないものが産む生むと言う事は在り得ないことである卵からヒヨコが孵(鶏)った、又は卵からヒヨコ(鶏)が孵化した、と言うべきである。

★★★
卵が先か、鶏が先か」設問の問いに対して、「俺はなになに博士だ」「俺はなになに教授だ」「俺は学校の先生だ」等々の知識人は、「鶏は元は卵だった」又は「鶏は鶏ではない別の生き物の卵から生まれた」から、卵が先である、と結論づける、か、「答えが無い論争の例え」とのたまうのが、過去から現在に至る日本の知識人である。つまり、設問の問いを勝手に変更(摩り替え)していることさえこの者たちは理解すらできなのである。つまり、鶏と卵と言う完全に種類の違う別々の固有名詞の個体の問いを、「卵と卵」に勝手に変更(摩り替え)していることすら理解出来ないのである。例えば、、、卵を1とし、卵1、、、、鶏を2として、、、鶏2、、、ここで方程式理論の置き換えを活用すると、、、鶏2は、1+1=2であるから、、、1(卵)が先、、、とこの者たちは設問の問いを摩り替えて結論づけるのである。つまり、設問の鶏と卵ではなく、卵と卵、に摩り替え(卵と卵の比較にし)ているのである。この者達(「俺はなになに博士だ」「俺はなになに教授だ」「俺は学校の先生だ」とのさばっている知識人)は日本国憲法でも詠っている「平等、公平」が理解出来ないのである。だから、鶏を元は卵だった、だから卵が先、とのたまう。鶏が元は卵と言うのであれば卵は元は鶏だった、と、公平(卵と鶏鶏と卵)にするべきであろう。しかし、「卵と卵」に摩り替える、日本の知識人は平等公平の原則をまるで理解出来ないのである。国語の文法面から言うと、鶏と卵はいずれも固有名詞であるが、「鶏は元は卵だった」と言う主張は、鶏と言う固有名詞を、鶏と卵、と言う比較の公平さを欠き、鶏の方のみ勝手に、他動詞化した名詞に摩り替えて(鶏を卵にして)比較を「卵と卵」に摩り替え、答えを「卵が先」と決めつけている。これが日本の知識人の過去から現在に至る経緯である。洗脳される、又は自己洗脳が如何に恐ろしいことかご理解いただけると思います。

方程式理論で、それを解く説く。
1) 卵が先か、鶏が先か
2) 卵が先か、鳥が先か
3) 卵が先か、亀が先か
4) 卵が先か、ヘビが先か
5) 母親が先か、子供が先か
6) 親が先か、子が先か

1) 〜 6) までの問いに、「
進化論」や「遺伝子」と言う言葉(漢字)がありますか。
これで、
卵が先、と言う回答が出ると思いますか。
これで、
子供が先、と言う回答が出ると思いますか。

あなたの目の前に、「にわとりA」と「卵B」が在る、と仮定し、それを、にわとりA側だけ、元は別種の卵(C)だった、と言うものの考え方に日本人の矛盾があるとおもいませんか。なぜ、別の種の卵Cをもってくるのだ。たまごCは設問の問いにはないことを日本人は理解出来ないんですか。にわとりA卵Bの勝負(いずれが先かの問い)に、別種の卵Cは、勝負(問いには無い)外とおもいませんか。 なぜ、にわとりAだけ、元はなに者かの卵(C)だった、と日本人は解釈するのだ。目の前に「にわとりA」と「たまごB」があることを日本人は理解できないんですか。それを片方(鶏A側)だけ、別の種類の卵(C)を持ってきて、その「卵Cが先」、という回答は、間違いとおもいませんか。設問の問いは「にわとりA」と「卵B」の勝負(いずれが先か)、であって、別の種の卵Cは関係ありません。卵C鶏Aは同一固体(例え、同一人物)である。同一固体(鶏Aのみ)にはいずれが先かの問はあり得ない。問いは同一固体(鶏A)の成長過程を問うている訳ではない。

★★★ 方程式理論で、、、卵が先か、鶏が先かを、説く、解く、、、
「鶏(母)」と「卵(子)」は完全に別々の個体(生む側と生まれる側の関係)。

方程式理論で、、、「母親が先か、子が先か」の問いに置き換えて、、、
★ 母親A、子B、、、、、母Aの子供時代が子a、、、、
★ 鶏A、卵B、、、、、鶏Aの子供時代が卵a、、、、


母A(
鶏A)と子B(卵B)はいずれが先か、、、と言うのが、問いの趣旨である。
子a(卵a)と母A(鶏A)は同じ(同一人物)だから、問いの趣旨から外れる。
なぜならば、同一の個体において、いずれが先か、と言う問いはあり得ない。
問いは、別々の固体において、いずれ(
鶏A卵B)が先かである。
母親が先か、子が先か、の問いは、母の成長(子a→母A)過程を問うている訳ではない。
子が先か、母親が先か、の問いは、生む側母と生まれる側子供の関係を問うているのである。
卵が先か、鶏が先か、の問いは、鶏の成長(
卵a→鶏A)過程を問うている訳ではない。
卵が先か、鶏が先か、の問いは、生む側
鶏Aと生まれる側卵Bの関係を問うているのである。

 卵が先か鶏が先か、の問いに、鶏側だけ、「鶏は何かの卵だった」と言う屁理屈は、日本むかしばなしの「うさぎと亀」のいずれが先に着くかは、、、亀が勝ったが、、、その結果に対して屁理屈を言い、いや、亀は元は何かの卵だったから、、、「卵が先だ、卵→亀」と、、、とんでもない屁理屈が「卵が先」論理である。

鶏から卵は産まれる、と言うが、卵から鶏が産まれる、とは言わない。鶏が生む卵は、生む側の鶏と生まれる側の卵は、完全に別々の固体(生き物)であるが、卵から孵る鶏は、この場合、卵と孵った鶏は同じ固体(生物)である。つまり、卵から鶏が産まれるとは言わない、同じ(卵→鶏)固体から産まれるとは言わない、自分()から自分()が産まれるとは言わない。

鶏は卵を産むが、この場合雄と雌との受精によって有精卵は産まれる。しかし、卵のみであれば雌だけでも卵は産む、雌だけで産む卵は、人間の雌(女)に例えると、受精しない(鶏の無精卵)生理に似ている。

日本の知識人やその者達から教育を受けた諸君へ小学生程度の説明。
卵が先か鶏が先か、と言う設問の問いは、「鶏と卵」と言う別々の個体である。教室において、生きた鶏を持ってくるのは、難があるはず、、、。★そこで、手元に在るプリンター用紙に、一枚目は鶏の絵、二枚目は卵の絵を書いて、鶏の絵を左手に持ち、、、卵の絵を右手に持ちます。絵を持ったまま、左手(鶏の絵)と右手(卵の絵)を交差させれば、、、自由に、後か先か、を選択(左側や右側に移動変化)出来るはず。つまり、設問の問いは、いずれ(卵か鶏か)が先か後かの問であるからして、、、。★三枚目のA4の用紙に「卵と鶏の両方」の絵を書きます。つまり、一枚の用紙に「卵と鶏」の絵が描いてあるはず。その用紙一枚(卵と鶏の絵が描いてある)を左手と右手で持ってください。例えば、なにかの賞状をもらった時の賞状を両手で伸ばした感じ、、、。その状態で、手を交差させてみてください、卵と鶏は、後か先か、自由に変化しますか。★つまり、卵が先か鶏が先か、の問いは別々の個体でなければ、先か、後か、と言う設問の問いは成り立たないのです。これ等は方程式で言う、答えから問題を導く方法で解く説く。設問は、タマゴだよ、と、ハッキリと限定していることにご注目ください。

細胞、DNA、レベルで見た卵と鶏の成り立ち(細胞の変化又は進化)、1細胞からはじまる。

        /タマゴ(数万個の細胞)→鶏(数百億個の細胞)
1細胞から→
        \数万個の細胞(タマゴ)→数百億個の細胞(鶏)

日本人がよくやるジャンケン。あなたの右手でハサミを出してください。左手もハサミを出してください。出て居る指の数は4本。つまり、卵が鶏に成る為には、事前に、2工程(卵を2個、オスになるものとメスになるもの産む)、4親が必要です。1卵だけでは、その卵は鶏にはなりません。何故ならば、1卵は、雄の鶏になるか、雌の鶏に成る、と言う宿命(親から与えられている、絶対必要条件)を有しています。つまり、「鶏が先かタマゴが先か」の問い、この問いが永遠に続くサイクルであると考えられる以上、この場合、鶏は、先にオスとメスが居て有精卵のタマゴが後から産まれることによりこのサイクルは永遠に続くことになり、結局、鶏が先、と言う結論を導くことは容易である。
日本を牛耳って来た者達は、大金持ちに、高学歴の者たちであり、この者たちは、鶏を飼ったことがほとんど無く、その(鶏の)生態を理解することは出来なかったのである。だから日本では、卵が先、又は答えが出ない例えに成ったのである。
日本の教育方針は、詰め込み主義で、物事を論理的に正しく理解する論理的に判断する能力を教えられてない。コンピューターで言うデーターベースだけが肥大化して、CPUや検索判断機能がそれについていかない状態である。日本の教育方針は。驚いたことに、いまだに日本の憲法学者や教育者は「表現の自由は制限出来る」「表現の自由には制約がある」と教えて居る(日本人の書いた憲法の参考書含む)とは、呆れて仕舞う。さらにメディアまでそれに追随しているのが日本の状態である。保障するとは、保障した件、保障した範囲にはなんの制約も無い(無制約と言う意味)、と言う意味である。制約があるのは、保障してない範囲外である。憲法はなにを保障しているかと言うと「表現の自由」である。裁判の判決結果によって、「表現の自由の制限だ」とか、メディア等々でも、判決結果に対して「表現の自由の制限だ」と活字に成るから呆れる。裁判結果によって、表現の自由の定義がかわることはありません。表現の自由の定義をかえる為には法改正が必要です。現憲法が作られて、表現の自由に関しての法改正は行われた経緯はありません。

 日本人のものの考え方の曖昧さ、日本人が物事を正しく判断出来ない正しく理解出来ない、物事を正しく理解させる為の教育を疎かにしている現状を検証。日本では、毎年嘘っぱち小説(文章を厚化粧し、文章に麻薬覚せい剤を飲ませ、文章を飾り立て、人間の本能を擽り、人間をだます)に対して、直樹賞、芥川賞はじめ何々賞に対して、その賞とお金と名誉を与えている。文章や文字は本来元来、物事を正しく理解させる、物事を正しく伝える為の、意思疎通、通信、伝達手段のひとつであるが、嘘っぱち小説である文章としての麻薬(ある面悪魔の薬)に対して、より人間を麻痺させる麻薬性の強い文章に上位ランクを付けて、賞とお金と名誉を与えている、この矛盾、日本人は理解出来ているのか。嘘ぱち小説を読んでなんのメリットがあると言うのだ。嘘っぱち小説に対して賞を設けて何のメリットがあったと言うのだ。結局は、物事を正しく理解出来ない人間を量産してきただけではないのか。間違いを是正することは不可能に近いが、「時と言う薬」「時間と言う薬」がじわじわ効いて、いずれ是正さけるであろう。現に、デジタル百科事典は「JISart、JISコード」と「asciiart、asciiコード」に関して2004年と2005年では是正されつつある。アスキーアート(AA)は日本語掲示板には掲載出来ない文字絵(TEXTart)のことである。2ちゃんねるはじめ日本語掲示板はJIS文字環境でありアスキー文字(ascii)環境ではない。JISコードの中には、アスキーコードが入っているとか、アスキーコードを採用しているとか、アスキーコードを含むとか、とんでもない間違った教えをしているのが日本の教育現場である。勿論書物もそのような記述になっているから呆れる。JISコードとアスキーコードは完全な別々の文字コードである。コンピュターは同時に別々の文字コードを選択するような仕組み(プログラムで同時に選択出来ない仕組み)にはなってないのである。

日本の歴史は「肩書き重視、肩書き主義」の歴史であり、現在もそれを引きずって居るから、「俺は東大卒の憲法学者だ」「俺は京大卒の憲法学者だ」「俺はなになに博士だ」「俺は哲学者だ」とのさばっている者(先生や教授や学者含む)達が更にのさばって、でぇ国民もその者達の言うことを100%信用するのである。つまりそれは肩書き重視肩書き主義の歴史を現在も国民が支持しているからである。公務員(学校の先生含む)は我々国民の代表であり公務員(学校の先生含む)は我々国民が彼らを雇っていることを我々国民は理解する必要があります。国とは、我々個人個人の集まりであり、国とは、なにごとも多数決で決めて作った我々全国民のことである。とか御上(現在はほとんど使わない言葉)とかは、我々全国民とその代表のことである。国とは、その代表が「自分は偉い、なにごとも許されている」と錯覚して勘違いして、その者達がのさばっている所である。日本の知識人は屁理屈と哲学を混同しているようだ、日本の教育現場では屁理屈を教えているようだ。

鶏が先か卵が先かの問いに「進化論」を持ち出すこと自体設問を理解してないのである。なぜこんな事が起こるかと言うと、日本の教育方針が、物事を論理的な教えを疎かにしている証であろう。 つまり、この問いに進化論を持ち出すことは、日本人独特の屁理屈である。

★★★、、、例として、、日本人は、こんな問いにどのように回答するのであろう。
「ヘビが先か卵が先か」「亀が先か卵が先か」「恐竜が先か卵が先か」「サンゴが先かタマゴが先か「」「魚が先かタマゴが先か」さて、屁理屈と哲学を混同している日本人はどんな回答を出すと言うのだ。はたまた、進化論を持ち出すのであろう。
この問い(鶏が先かとタマゴが先か)に進化論を持ち出すこと自体、問いの「鶏」と「タマゴ」の他の生き物を出す、と言うことを日本人はそれが理解出来ないのである、問いは「鶏」と「タマゴ」の他に生き物は存在しないことを日本人は理解出来ないのである。
問いの回答は、「鶏」か「タマゴ」の固有名詞のいずれかであり問いに他の生き物は存在しない。

★★★★★はじめての理論の著作権は著作者にあり
この理論(著作権発生)を公の新聞雑誌本等々に使用する者は許可が必要です。、、、人間の元は猿族ではない説、鶏が先理論は世界で初めての理論であるからして、、、著作者
(bigpapa)許可が必要です。但し、ホームページ等へのリンクを貼ることは自由です。ちなみにbigpapaは無神論者である。
  過去にbigpapaと同じ説(世間に発表された論文)の理論があると言うのであれば申し出てもらえば幸いです。
   メール連絡は→ ココへ

ホームページへ戻る