● 「海の向こうに未来が在る」「七つの海に宝が在る」と言われた頃。
神風特別攻撃隊と戦艦大和の話や、アメリカ軍の陸地みたいな戦艦ミッドウェイを見学し
武者ぶるいした頃。 戦後20年近くなろうと言うのに戦争は無いとは言え
ないと言う硬派も居た頃。 当時...「おまえらは戦争に成ったら海軍だ」
と言う先生も居た。 その後.......ク−デタ−失敗した「三島由紀夫」の
割腹自殺があり東大の安田講堂の攻防があり世の中在る面殺伐として
居た時代だったかも。
● その頃の趣味・写真全般現像焼付け・無線もやっていた送信機や受信機はすべて自作機で
真空管が全盛期だった。下の写真の無線機やマイクを見れば
時代がわかると思います、写真左手に持っているマイクは、たぶんアメリカ軍払い下げのカーボンマイク、
センターに立っているマイクは日本製のクリスタルマイク。(高校時代のころ夜中無線機に火を入れて...
真空管の微かに灯る火が懐かしい...)
● むかし沖縄県はアメリカ統治でアメリカから与えられたコールサイン、
琉球人は【KR 8】アメリカ人はKR6、だった。勿論、沖縄で日本国籍人には局免許は与えられなかった、貨幣もドル$だった。
KR8BF 18歳の時
妻のコ−ルサインは九州JH6OSN 沖縄JR6WDO
私のコ−ルサインはJA6EGK JR6BF(KR8BF)現在は局免許は期限切れ。
ちなみに免許は第一級ア無線技師でJARLの終身会員。......
● ここで妻の事をすこし...妻が20歳のころ一緒に我が家に行く
道すがら、サトウキビの穂に対して「沖縄のススキは大きいねぇ」と言ったものです。
妻は栄養士の免許を持っているので病院の栄養士をやっていた
らしいが ご飯を炊く時水加減が下手で釜のメモリに神経質だった
が その点私はメモリはまったく気にせずにご飯を炊くのが
得意だった。妻は子供の時ご飯を炊くことを任されてなかったか
母親に頼りきって居たと思われる。そんなこんなで妻は料理を作る
ことは得意ではなかったが 現在は合格点を上げたい...【笑】
妻は近眼で黒ぶちのメガネをしていたが沖縄に来て近眼も便秘も
治った。それは結婚して「あれは食べないこれは食べない」を
強制的に私が治したのです。運転免許証もメガネではなくなった。
妻の実家での料理は塩分が多すぎるきらいがあった。
体が弱い者が居る家庭では塩分を控えめがベタ-である。
他府県の者をアルバイトで雇うが彼らは我々の2〜3倍の塩分を..。
食べ物と気候によって大抵の病は治るのです。長生き遺伝子は
そんなして徐々に作られていくのである...【笑】
「生まれ代ってもまた私と結婚するっ?」と妻に言われても...
返事に詰まるpapaであった...【笑】
どんなリアクションをすればいいものか。
ちなみに妻は北九州の若松出身で「栄養士」の免許保持者です。
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